if all men are truly brothers


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 《今日は多くの若者を前に話ができて大変うれしい。君たちの表情は明るく、君たちはこの世界を救う方法があると信じている。僕も同じだ。互いに憎しみあい、走り回る人はもういらない。ワシントンのホワイトハウスの連中みたいに、互いの名を呼び合って、振る舞ったりする必要はない。もう戦争はごめんだ。この世に必要なのは、ほんの少しの愛と平和だ。戦争はうんざりだ。毎日が戦争という人もいるが、その必要はない。さぁ、こっちに来てくれ、美しい若者のコーラス隊がいるんだ。ある日、僕は、自分が常日頃から感じている気持ちを正確に綴った歌を聴いたので、それをみんなに教えたい。それは「コメント」という歌で、互いに愛し合う人類についての語りなんだ》

〈すべての人類が本当の兄弟なら。なぜ僕たちは互いの思いを理解し合えないのか。愛と平和が海から海を越えて、渡っていくように。誰か僕の意見に賛同してくれないか〉レスマッキャン 「コメント」(70年)ライナーノーツより

 

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comment 原曲はチャールズ・ライトが「ワッツ103rdストリートリズムバンド」名義で発表したシングル盤(69年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホイットマンのワルツ(Waltz Whitman )

ホイットマンは言った

 

歌い続けること。走り続けること。

心のおもむくままに、歩をすすめること。

陽気に自覚して 、歩み、歩みつづけること。

つねに、宇宙の、壮大な空気を呼吸すること。

心臓から汚れない血液を勢いよく送り出すこと。ばら色のからだを、大切にすること。

じぶん自身を自分自身の、全面的で、絶対的な、主人とすること。

けれども、他人の言葉に耳傾けて、じっくりと考えること。

立ち止まり、探し回り、受けとり、考えぬいて、

穏やかに、しかし決然として、かたること、手で何かを掴むこと。

何一つ拒まず、一切を受け入れること。

そののち、じぶん独自のかたちに、一切を作り直すこと。

長田弘 著  アメリカの61の風景  60 ホイットマンのワルツ より)

 ホイットマンの詩行に基づく集合詩(アサンブラージュ)。底本は岩波文庫ホイットマン詩集「草の葉」(全3巻 杉木喬、鍋島能弘、坂本雅之 訳)

 

 

 極上のロードエッセイ

アメリカの61の風景

アメリカの61の風景

 

(あとがきより抜粋)

アメリカの61の風景』 は、この20年あまり北米大陸をじぶんで運転して走り、一州をのこしてぜんぶの州を走って、ほぼ十万マイルにおよんだ旅に基づいている。

ヘンリー・ジェイムズは旅について「じぶん自身の感覚の掟に従うことだ」と言った。「どんな感じだい、じぶん自身だけだということは」とボブ・ディランはうたった。そのとおり、ランド・マクナリー社の地図のみを道づれとして、旅し、旅を続けて、そのような旅の先に見えてきたものとして記しておきたかったのは、アメリカのなかにあるヴァニシングポイント(消尽点)だった。

風景は時間だと思う。風景は風景がその時くれる時間なのだ。

61の風景、その場所に立って、詩人長田弘が考えたこと。感じ、得た言葉。

小さな町に降り立つ。その町の本屋、図書館でその土地の詩人の言葉に触れる。

大草原に佇み、存在の重さから解放され、透明な感覚になる。途方もない広大な光景は、逃れようもなく  大きな眼差しのようだ…

忘れたくないフレーズがたくさん。何度も読み返す本です。

今日は、ホイットマンのワルツが響きました。

こころも からだも しなやかで 強く ありたい。

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眠れない夜に


僕のサラダガール- Salad girl

これはシングルとは違うアレンジですね、こちらの方がいいかも。

 

夜、寝たいのに目が冴えて眠れませんでした。なんでだろうって考えてたら、たぶん風呂上がりに飲んだアイスコーヒーが原因かなって。子供か。

眠れなくて。

夜中にふと思い出したのですが、子供の頃、私の持ってるレコードを母親が知らないうちに聴いてその感想を言ってくることがありました。母は、特に音楽に詳しいわけではなく、普通にテレビやラジオから流れてくる、主に演歌や歌謡曲を、きこえてくるままに聞いていた人だったと思います。

母が「良いね」と言ったのは、ゴダイゴの「僕のサラダガール」と柳ジョージとレイニーウッドの「フォーリンダウン」という、どちらも英語詞の歌でした。当時の私は、母が「良いね」と言ったことよりも(人のもの勝手にさわらないでよ!)という思いが強く、好きな歌について母と話すなんてことはありませんでした。勿体無いことしたな、ちょっと悔やみます。かあさん演歌以外もきくんだね、いや演歌も結構良いよね、とかそんな話 してみたかった。

そういえば母は、突然クラシックギターを買ってきて家族を驚かせたことがありました。え?ギター始めるの?絶対続かないと思ったし、いつ練習してたのか全然わからなかったけど、定番の禁じられた遊びとか、ロシア民謡とか古賀メロディとか、ちゃんと弾いて、弾きながら歌ってたっけ…見せてくれたのはたった一回だったけど。あの人、音楽好きだったんだ、今わかった、気がついた、遅すぎて悲しくなります。でも、やりくりして、自分でギター選んで買って、教本も買って、誰もいない時ひとりで練習してたんだ、ちゃんと一人になれる時間を作って楽しんでたんだ、と思うとちょっとホッとしたりもします。

 

母が好きだと言った「僕のサラダガール」は、ゴダイゴ76年のデビュー曲ですが、私がレコードを買ったのはもう少し後。ドラマの西遊記、の音楽をゴダイゴが担当して「ガンダーラ」とか「モンキーマジック」が流行った頃です。ドラマで流れる曲が良いなぁと思ってもうちょっと聴いてみたいと思ったんです。ガンダーラモンキーマジックは友達が持ってたので私は違うのにしようって。小学生でしたが、ゴダイゴはチビッコにも大人気 笑。いや、でも真面目な話、今聴いても相当カッコいいですよ、ゴダイゴって。(月々の小遣いはもらってなかったんでお年玉で買っていました)

当時の自分は、サラダガールよりB面「イエローセンターライン」の方が断然良いと思っていました。今はサラダガールも好きです。


YELLOW CENTER LINE

歌詞は奈良橋陽子さん。車で「不慣れな急カーブの山道」を走行して怖かった、という思い出を元に書かれたそうですが、それがこうなるんですか、っていう感じで、カッコいい。

話は変わりますけど「西遊記」のあと出た、ゴダイゴのアワーディケイドour decade(79年)というのは「70年代の総括」という大きなテーマのコンセプトアルバムなのですが、陽子さんの英語詞に山本安見さんの日本語訳が付いていて、一つ一つの曲にそれぞれ英語と日本語で解説が付いていました。難しかったけど当時の若いファンは若いなりに、そのメッセージをちゃんと受け取ったと思います。私もそのつもりです。70年代から80年代へ…の内容が、驚くほど今の時代に重なる。すごい。

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ジョーちゃんの話はまたいつか。

 

 

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クタクタになって夕日を見た

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「岬」と名のつくところへ行ったのは生まれて初めてでした。ただのドライブで良かったのに、なんでこんなとこ来てまるで登山みたいな事してるんだろう…

駐車場から歩いて、歩いて歩いて、登ったり降りたり、崖の、尾根のような通路…高いところが苦手な私はオシリがムズムズしましたが、顔だけは平気を装っていました。後ろからどんどん人が来るので立ち止まって休むこともできません。

すれ違う若い人たちはみんな軽装で帽子もかぶらず、襟周りの開いた服を来ていて、小母さんの私は(そんな格好じゃ日焼けしちゃうよ〜)と思いながら、自分は暑いのにパーカーのフード被ってクビにタオルを巻いて、もうカッコ悪いとかどうでもいいですと俯きながら歩いていました。

やっと岬について、着いたら誰もがそうするように、海をバックに連れと写真を撮りました。他人からもらう年賀状の中に(場所は違えど)岬で撮った新婚夫婦のツーショット、というのがしばしばみられ、あれは一体何なんだ、と常々思っていましたが、せっかく突端まで歩いて来たんだから写真撮ろう、せっかくだから年賀状に使おう、と思うきもちが、初めてわかったような気がしました。クタクタになってやっと岬についたという証拠写真、誰かに見せたくなるよね(うちは年賀状出さないので写真の使い道は無いと思います)

夕方、岬の近くで、海に沈む夕日を見ました。この写真では百分の一も伝わらない感じですが、とてもきれいでした。

 

 

 

桜と雪と

(雨の日曜日の日記)

雨音で目が覚めました。

昨日髪を切りに行く途中公園の桜を見ました。今日あたり満開かなって思ってたのに雨、なんだかちょっと残念です。寒い。ストーブつけました。北国のストーブは据付で年中出しっ放し。毎月燃料店が外の灯油タンクをチェックしに来て減った分だけ勝手に給油していきます。灯油が切れることがない。なのでちょっと寒いとすぐスイッチに手が伸びます。我慢しなくていいから寒さに弱いのでしょうね。

昨夜録画したNHKBSプレミアム、リー・リトナー ライブを見ました。なんと、佐々木希ちゃんのナレーション付きです。(そういえば希ちゃんオメデタなんだってね〜)

私みたいに音楽聞くのは好きだけどいろいろよくわかってない人にとっては、経歴とか、曲の解説とか演奏テクニックとか、ナビゲートしてくれるのはわかりやすくていいことです。最小限のナレーションとテロップ、リハーサルの様子、本人へのインタビューを挟みつつのライブ映像です。

へーっなるほどね〜、オクターブ奏法、じっくり手元を観察してみます(多分全然わかってない)

彼が少年時代から憧れたウエスモンゴメリーへのオマージュ曲「ア・リトル・バンピン」遅い朝のマッタリした空気に合います。

 

 

ウェス・バウンド

ウェス・バウンド

 

 

「ウエスのオクターブ奏法はとてもソフト。これは夜中に狭いアパートで練習するとき子供を起こさないための弾き方だったんだ。ピックで弾くと音が大きくなるから、ウエスは親指ピッキングになったんだ。優しい音になっただろう?」

これは有名な話なのでしょうか。ホンマかいなと思う自分は心が汚れていると思いました。

(本当っぽい。昼間、生活のために工場で働いていたウエスモンゴメリーは、ギターの練習を夜中にするしかなかったのだそうです)

続けてリトナーさんは「ボクは親指とピックを使い分けるのでピックは指に挟んでおくよ」とニコニコしながら仰っていました。演奏中も、ずっと、常に、満面の笑顔、ちょっと不思議な感じがします。

キャプテン・フィンガーズ(期間生産限定盤)

キャプテン・フィンガーズ(期間生産限定盤)

 

 

 

あーあ、雨か、つまんないな〜、と窓から外を見たら、庭の木から鳥が飛び立ちました。きれいなきれいな青い鳥。この子かな?お腹白かったし。

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オオルリ

 

オットは今日から四日間も有給なんだって!(えー四日も家にいるの!?私四日間も三食用意するわけ?早く言ってよ!)と思ったけど。言わないけど。そうしたら、今日はお昼にホンコンヤキソバ作ってくれました。明日も是非お願いしたい。

 

車で出かけようしたら雪がチラチラ。ホントに寒かったんだ。もう夏タイヤに替えていたので、家で大人しくしていたほうがいいと思いました。

 

ここまでが日曜日の話。

今日買い物帰りに見たら、メインストリートの桜はいつのまにかピークを過ぎていました。今年の桜前線は早いのかと勝手に思っていたけど、結局去年と同じでした。

 

 

 

死ぬまで生きる

今週のお題ゴールデンウィーク2018」

暦通りの休日でした。いつもの日曜日、みたいな過ごし方を毎日してました。

 

都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。

塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。(青色の詩 最果タヒ夜空はいつでも最高密度の青色だ」より)

録画しておいた映画とドラマはどれもイマイチでしたが六日に、日本映画専門チャンネルでやってた映画は、見てよかったと思いました。

映画の元になった詩集を初めて読んだときは、受験生が夜中に殴り書きした日記を見てしまった、みたいな気がしました。よくわからんが所々ハッとすることが書いてある…かつての自分もそうだったかもしれない、でももう忘れた(思い出せなくてもいいの、なぜって恥ずかしいから!)っていう感じの、あれです。

…そう思った割には、読んでは途中で閉じて、また後でこっそりみて、また閉じて、結局最後まで読んでしまいました。

(自分と一緒にしちゃダメですね。鋭い感性とそれを言葉にできる素晴らしい凄い才能だと思いました)

夜空はいつでも最高密度の青色だ

夜空はいつでも最高密度の青色だ

 

この詩集を元に、ストーリーを創作した映画

都会の片隅で孤独を抱えて生きる若い男女の繊細な恋愛模様

田舎から東京に出てきて働いてる女の子(美香)と男の子(慎二)が出会います。美香は看護師をしながら、失業した父に仕送りするため夜ガールズバーで働いています。学生時代成績優秀だった慎二は片目が見えないことを隠していて、今は建築現場で日雇い労働をしています。

二人とも、他者と充分コミニュケーションが取れる子なのに、孤独も生きづらさもないだろうさ、って時々突っ込みたくなったけど、多分そういうことじゃないんだろうな。私はもう年月を重ねすぎて感情が雑になったからか、誰彼構わず突っかかる美香ちゃんに(そんなに突き詰めて考えなくてもいいんだよ)と声をかけたくなりました。昔の若者はもっと幼稚で「大人はわかってくれない、わかってほしい」ってジタバタしてるだけだったと思います。

私は美香と似た経験をしたことがあるのですが、慎二の方にも共感できました。いつも嫌な予感がするところ。生活費と、世界で日本で起きてるいろんな事と、好きな人に今すぐ会いたいのカオス(←一人暮らししてた頃の、訳のわからない不安定な気持ちです)

あと、頑張れって言葉はあんまりいい言葉じゃないかもしれないけど、生きてるとホントに辛いと思うことがたま〜にあって、そういうときは誰かに言われたり自分で言ってみたり、心底思うかどうかは別として、言葉の後押しがないと進めない時があって、だから、ストリートの女の子が歌う至極たよりない「がんーばぁれえぇぇー(頑張れ)」っていうのを慎二が「俺に言ってる」と思った気持ちはすごくわかりました。「脇汗かいて〜」で始まるちょっと微妙な歌詞と、お世辞にも巧いとは言えない歌唱力と、野暮ったいヴィジュアル(ごめん、でもそういう設定ですよね)、絶対売れないよねって陰口叩かれながらも変わらず堂々と歌い続ける姿。でも、聴く方の心境に変化が生じた途端、グイグイ迫ってくる…「誰になんと言われようが不器用でも不格好でも前に進もうとしてる感」は伝わりました、充分過ぎるくらい。

そして、側から見れば残念な大人の、中年の岩下さんが、実はけっこう強かかもしれないと思いました。「自分を不幸だと思ってもしょうがない」そのとおり!「死ぬまで生きるさ」大正解。かっけー…かっけーよ岩下さん。ざまあみやがれって、私も言ってみたい。

 

 

連休中はずっと家にいたので、テレビを見ることが多かったんですが、あのー、あれですね、

「猥褻」…って言う言葉のインパクト。全てが粉々に吹き飛んでしまう、すごい破壊力ですね。あの人にもこの人にも、それまでの人生の中で積み上げてきたものの中には「善きこと」も少なからずあったはずですが、それが全てなかったことにされるようなら、非情なものだな、と感じる私は甘いのでしょうね。

セ◯ハラについて社会全体で考えることは、個々の事案を「全て同じだ」と言い切って糾弾することではないんじゃないかしら。あれを世論といっていいのかな?誰が火に油を注いでいるのか。リテラシーって大事ですね。

起きたことは、一人一人違う人の事。ひとりひとりに名前があって今日もどこかで暮らしている。

誰の未来も奪われたくないと言った人の願いは叶っているのかな。

あの人は、今日誰かにちゃんと「おはよう」って言えたかな。

死ぬまで生きてね、お願いだから。

 

 

 

 

 

 

 

安房直子「白いおうむの森」

 

ひぐれのお客 (福音館創作童話シリーズ)

ひぐれのお客 (福音館創作童話シリーズ)

 

歿後なお新たな読者を獲得し、読み継がれつづける安房直子。本短篇集は、小社の雑誌「母の友」「子どもの館」に発表された作品のみをあつめ、刺繍による美しい絵を挿んで編んだもの。一風変った動物どもが、ひとりの時間を過している子どもや大人たちを、ふしぎな世界へといざなっていく。さびしくて、あたたかい、すきとおるような味わいの童話集。これまで単行本未収録だったエッセイ「絵本と子どもと私」も収載。小学校中級から大人まで。(福音館書店HPより)

安房直子といえば、小学校の教科書に載っている作品を読んだことがあるという人も多いと思います。遥か昔ですが、私も国語の授業で「きつねの窓」「鳥」を読んで、その幻想的な世界に魅了された一人です。著者が亡くなっているので新作を読むことは叶いませんが、没後も作品集が発表され続けるということは、時代を超えても人の心を捉える何かを持っているのでしょう。作品集を見つけると必ず手に取ってしまいます。多少被っていても、未読が一つでもあれば、買わずにいられないのです。

子供向けの作品というと何かしらの教訓めいたオチがつくストーリーが多いものですが、安房直子の作品は、特にオチがないストーリーでもなぜか心が惹きつけられます。読者の郷愁を誘いつつ、登場人物の欲望、後悔、罪悪感、喪失感…決してポジティブじゃない感情だけど誰もが心の奥底に秘めているものを、透明な、素直な言葉で紡いでいくところがいいと思うのです。

 

 

白いおうむの森―童話集 (偕成社文庫)

白いおうむの森―童話集 (偕成社文庫)

 

 

先日仕事中にたまたま聴いていたラジオ番組、詩の味わい方をレクチャーするという内容だったのですが、講師の方が「古来、翼のある鳥はあの世とこの世を自由に行き来することができる存在とされてきた」という話をしていました。死者への思いを鳥に託す。平安時代の和歌にはそのような歌が幾つもあるのだそうです。古今和歌集「哀傷歌」の よみ人しらず の句が紹介されていました。

なき人の  宿にかよはば  ほととぎす  かけて音にのみ  なくと告げなむ(八五五)ホトトギスよ、もし亡き人の家に行くのなら、お前と同じく私も、あの人のことを心に思い、声に出して泣いてばかりいると伝えておくれ)

「白いおうむの森」主人公の少女 みずえ は、近所の宝石店で飼われている白いオウムに、自分の思いを託そうとしました。

この世界にいる者で、死んだ人の国に行けるのは、鳥だけなのだと、誰かから聞きました。鳥はよみの国へのおつかいをするのだと

みずえには会いたい人がいるのです。自分が生まれる前に亡くなった姉の夏子。会うことが叶わないならせめて手紙を出してみたい…。

人の言葉が話せるオウムなら、神秘の国を知っているのではないか…姉への手紙を届けてくれるのではないかとみずえは本気で考え始めます。みずえは飼い猫のミーを連れて、オウムに言葉を教えるため(なつこねえさん、と言わせるため)毎日宝石店に通います。

しかしオウムはある日突然、店から姿を消します。みずえは宝石店の男に、あんたの猫が食べたんだろうと責め立てられ、二度とその宝石店には行くまいと誓うのですが、今度は可愛がっていたミーが姿を消してしまいます。

ミーを探して宝石店にやってきたみずえは、いつもオウムが止まっていたゴムの木と壁の間に、地下に降りる狭い階段が四角い口を黒々と開けているのを見つけます。中からミーの鳴く声をきいたみずえは中に入り、暗闇の長い長い階段をどんどん降りて行き…

 

切なさが特徴の安房直子にしては、ホラー的な要素のかなり強い作品でした。「世にも奇妙な物語」のような。

長い地下の階段の先には大きな森があって、みずえは会いたかった夏子に会うことができたのですが、その場所は、天国ではないんですね。なんて言ったらいいか、、古事記に出てくる黄泉比良坂(よもつひらさか)のような、この世とあの世の境い目みたいなところなのです。

大きな森の木々にはたくさんの白いオウムがとまっています。そして一つの木の下に一人づつ人が座っています。夏子によれば、オウムは現世で死者を思っている人のおつかいで、現世の者が死者を思うたびここに飛んでくるが、時間が来るとみんな帰ってしまう。オウムが帰ってしまうと鬼が現れ魂を食べようとする。食べられないためには、オウムが届けてくれた言葉をつないだ歌を歌う、そうすると鬼は逃げて行くのだと。

みずえは、もっといい場所、天国のような場所にはいけないの?と聞きますが、それには道案内をしてくれる強いオウムが必要だと夏子は言います。そしてなぜか、そのおつかいには、みずえの猫ミーが最適だと言うのです。ミーを寄越せと。ミーが本当に宝石店のオウムを食べたのかどうかは、最後まではっきりわからないのですが、地下の森にきたミーは人の言葉を発していました。オウムを食べたのだとしたら、ミーも特別な力を持ってしまったのでしょうか…みずえはいつのまにか周りの樹の下にいた人々にとり囲まれ、「ミーをください」「ください」と詰め寄られます。

主人公の みずえ はとても感受性豊かな少女なのですが、他の登場人物、動物も含め、物語の前半までは、ほとんど誰も感情を露わにしないところにいつもの安房作品とは異質の不気味さが漂っていました。そして後半、無表情に見えた者たちが、急に自分の欲求をみずえに訴え始めるんですね。そこが怖かったです。

亡者たちからの要求に危険を察知したみずえは、ミーに現世への道案内を指示し無事に元いた世界に戻ってきます。でも話はそこで終わりではなく…

(短編集「ひぐれのお客」に収録されたのを読みましたが、白いおうむの森が表題になった文庫もあります。他の収録作が違いますので、それはそれで別な機会に読んでみたいと思っています)